2025年12月31日。放送100年という巨大な節目を迎えた「第76回NHK紅白歌合戦」を観終えて、何とも言えない奇妙な感覚に包まれている。
かつて、紅白は「答え合わせ」の場所だった。 その年に誰もが口ずさんだ流行歌を再確認し、世代を超えて「ああ、今年はこういう年だったね」と頷き合う、国民的な儀式。しかし、今夜のステージから伝わってきたのは、そうした「共有された物語」の終焉だったように思う。
断絶したまま共存する
今回の紅白が提示したのは、融和ではなく「徹底的な個別化」だった。
放送100年を記念した堺正章や南沙織といったレジェンドたちの登場は、テレビが「王様」だった時代のオーラを放っていた。一方で、Number_iやtuki.、そしてFRUITS ZIPPERといった面々が並ぶステージは、完全にスマホの画面越しに最適化された、新しい時代のスピード感で動いている。
かつての紅白なら、これらを無理やり一つの「国民的」という枠にパッケージしていただろう。だが2025年の演出は、それらを混ぜ合わせることを諦めたようにも見えた。それぞれが独立した島(アイランド)のように存在し、視聴者は自分の好きな島にだけ意識をフォーカスさせる。もはや「お茶の間」という単一の空間は、物理的にも精神的にも存在しないのだ。
Perfumeが去り、ミセスが背負ったもの
特に印象的だったのは、活動休止を前にしたPerfumeのステージだ。 2008年の初出場以来、彼女たちはテクノロジーを駆使して「テレビの限界」を更新し続けてきた。その彼女たちが、放送100年という区切りの年に紅白を去る。それは、テレビというメディアが「未来」を先取りしていた時代の終わりを象徴しているようで、胸に迫るものがあった。
そして、大トリを務めたMrs. GREEN APPLE。 彼らが歌う「GOOD DAY」の響きは、かつての演歌歌手が担っていたような「家長的な権威」ではない。もっと脆く、それでいて切実な、個々人の内面に寄り添う祈りのようなものだった。彼らが最後を締めるという事実に、今の時代における「正解」の形を見た気がする。
最後に残った「句読点」
結局、2025年の紅白は「私たちの知っている紅白」ではなかった。 それは、誰もが知っている歌を歌う場所から、バラバラになった私たちが「今、ここにいる」という事実だけを確認し合うための、巨大なプレイリストへと変貌したのだ。
それを「寂しい」と切り捨てるのは簡単だ。けれど、これほどまでに価値観が分断された社会で、それでも数時間だけ同じハッシュタグを追いかけ、同じ画面を眺める。その微かな連帯感こそが、100年目を迎えた紅白が絞り出した、最後の「国民的行事」としての矜持だったのかもしれない。
私たちはもう、一つの歌で繋がることはできない。 けれど、バラバラのまま隣に座ることはできる。2025年の紅白歌合戦が残した余韻は、そんな新しい時代の、少し冷たくて優しい手触りだった。
